カルペディエム

小説書いてます

東京テディベア

東京都庁のこちらから全長300mのテディベアがのっそり姿をあらわして新宿西口中央公園に向けて動きはじめるまさにその瞬間を、片端太郎は新宿西口ドトール2Fから目撃していた。尻ポケットからiPhoneを取り出しカメラモードを動画に切り換えて「ポン」というまぬけな音とともにその圧倒的な存在をおさめはじめた端太郎がそのとき考えていたのは「これは戦争なのか?」ということだった。動画はあとから見るとえ?なに?なんなん?なにあれ?え?くま?オイオイオイマジかよちょまえ動いてるこわキャーうわちょちょちょまてってうおーバリバリバリバリ〜〜〜などドトール店内に満ちていく怒濤のような声と音と風切り音がほとんどで混沌そのものといった様相を呈していたが端太郎の耳にはまったく入っていなかった。東京都庁を抱きしめるような格好で破壊しているテディベアがいったいどこで製造されたものなのか、つまりテディベアが「日本製なのかアメリカ製なのか中国製のコピー品なのか」を見定めなければならないと使命を感じ、いわゆる製造元表示タグをテディベアの腰あたりに見つけなければならないと集中していた。テディベアが東京都庁を根元からへし折って正面に倒れていくところを端太郎は懸命にズームアップしてとらえた、するとなんということか「MADE IN JAPAN」のタグがついているのを発見した。「内戦だ!」端太郎は悲鳴のように叫び、iPhoneの動画撮影を「ポテン」というまぬけな音とともに終了させたあと、ドトールの階段を駆け降りていく。内戦だ!端太郎の頭はすでに戦闘態勢にある。リュックにはデータ入力作業用のMacBookだけでなくこの日のために用意していたサバイバルナイフとガスガンが入っている。テディベアを出現させたのは間違いなくこの東京のどこかにいるテディベア・ゲリラであり、おれはこの国のためにやつらをぶっ殺さなければならない。刺し違えて死ぬかもしれない。端太郎が走りながらそう考えると、頭にざぁっと血が流れて冷たくなった。アメリカ人や中国人であってくれたらまだぶっ殺すのにためらわなかったのになあ、どうして内戦なんだろうなあ。でも仕方がない。都心を急襲するのにテディベアを使ってくるような汚い日本人は殺されても仕方がない。自衛隊や米軍が出動するのを待っているのでは遅い。おれは自分たちの身を守る。自分だけでなくここにいる人々のことをおれが守るのだ。端太郎はリュックを前に抱えるとサバイバルナイフをひっぱりだしてギャンと抜いた。「テディベア・ゲリラは殺おおおおおぉぉぉぉぉす!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」端太郎はさけんだ。テディベアはちょうど新宿西口中央公園のイチョウやケヤキをなぎ倒しはじめたところで、端太郎はテディベアから逃れる人々の間をすりぬけるように新宿のアスファルトをNewBalance1400で全力で蹴りつけ走っていった。

技術点と芸術点:町屋良平くん「青が破れる」

腹も減っていないし性欲があるわけでもないのに体が何かを求めてそわそわすることがある。どこかに行きたいのにどこに行きたいのかわからないとかそういうの。わたしはそういうときなぜかユニクロに行って欲しくもないシャツやニットを試着することになっている。狭っちい試着室で服に袖を通しながら欲望ホルモンみたいなものが下半身をむずむずさせるのを感じてやりすごすのだ。自分が何かわからないまま。

 

 

町屋良平くんの小説には、そういうときに思い出すべき行き場のないノスタルジーみたいなものが書いてある。それは数年来ずっと変わらないのだが文藝賞受賞作「青が破れる」にはとくによく書いてあるのだ。

 

 

ボクシングをしている秋吉が友達のハルオから「恋人のとう子が病気で死にかけている」と聞かされ見舞いに行くことになるところから物語は始まる。ハルオは男子らしくてかわいいやつだ。一方の秋吉は基本的に不器用であり内気であり「一緒にいるとラク」なタイプの男子。夫も子供もいる夏澄という女性と不倫していて「こっちにきてくれない?」と言うとう子に誘われるまま病室のベッドに入ってしまったりする。そんな秋吉&ハルオ&とう子の間に入ってくるのが秋吉のスパー相手梅生である。梅生はボクシングが強く人間関係について勘がよく、秋吉&ハルオ、ハルオ&とう子の関係がどんなもんか整理できてしまう(秋吉は整理をしない)。その後なんやかんやあるのだが基本的に秋吉は自分の気持ちを整理しないままバサーっと夏澄との関係を切ってしまう。その後やはりなんやかんやあって結果としてハルオとう子夏澄が全員死んでしまう。梅生はいろいろな「きもち」をイメージして、逆に秋吉はイメージせず3人の死を受け止めるのであった。ちなみにこのなんやかんやのところに大事なシーンがすべてある。

 

 

わたしにとって冒頭のようなそわそわ感をあらわしていたのがまさに秋吉である。小説は基本的に秋吉の一人称なのだがつねに誰かに頼ったような一人称であり、全体には自分で自分を認識してないところからきていると思われる不安感がある。町屋くんの小説にはこういうふわふわ男子がよく出てくるのだが秋吉はかなりパーフェクトに近い。自分はこうだというルールを持つのを嫌い、結果として梅生いわく「星のなにかダークなアレ」をもつ友達や愛人に囲まれた状況そのものを自分として認識しちゃっている。しかし普通に考えりゃ主観なんてのはそういうもんかもしれず、それを消化できない秋吉のこころというのはもはや芸術的である。町屋くんの小説はいつもこの芸術性に満ちている。切なくてムキムキの体があらわれて、わたしに行き場のないノスタルジーを感じさせてくれるのだ。秋吉の言葉を借りればそれは「けっきょくなにかをかんじそうになったら、走るしかないから。」なのである。

 

※わたしは小説が好きだが読むことは全然うまくないため、町屋くん本人がこの感想文を読んだら「盛田さんまじ小説読めないわー死んで」とdisりそうな恐怖もある。

 

 

さて最後にファンとしてのコメントになるが、町屋くんの小説の中でも「青が破れる」がすばらしいのは技術的に優れているところである。

 

 

まず5人のうち3人が死ぬという実験的な展開があるのだが、これがまじで一気に死ぬのでさっぱりしている。そしてもうひとつ、最後に主体がわちゃわちゃして「神様」という言葉が出てくる大事な場面があるのだが、この実験的描写も1回しかやらないのでとてもうまく効いている。こうした実験的な要素を入れようとすると初心者は「実験してやったぜ感」を出してしまうものなのだが、きわめてバランスが整った状態で入れられている。町屋くんはフィギュアスケートが好きなので詳しくもないのに無理やりフィギュアスケートにたとえるが、芸術性の高い流れの中に難度の高い技をうまく入れられている。ようするに「青が破れる」は技術点と芸術点がともに高い。何度も演技をくりかえしたことで到達した、抑制のきいたわざであると思う。まったくよくわかっていないがつまりコンビネーションジャンプである。

 

 

作家、とくに江國香織さんがそうだなと思うのだが、その人にしか書けない執念のようなものが作品の底にあるとすれば、毎回変わるのはそこに入ってくる「実験」である。「青が破れる」で町屋くんは1つの実験に成功し、その成果として文学新人賞を獲得できたことになるのだと思う。こんなことはもう死ぬほど言われるだろうと思うけど受賞は町屋くんのスタートである。町屋くんのノスタルジーは進化しつづける一方である。町屋くんおめでとう。

ぼくの心臓が動かなくなって一年が過ぎた

朝、神子がカレンダーをめくった。ぼくの心臓が動かなくなって一年が過ぎた。

最後に心臓が動いていたのは33歳の誕生日を迎える1週間前のことだ。幸いにもわずかながら投資で作った蓄えがあったこともあり、神子はベッドの中で動かなくなったぼくをやさしく受け入れてくれている。最初こそ戸惑ったが今ではそういうものと認めてくれた。死にながら生きるものと暮らすこともあるのだと。

「昨日うずらやに行ったらねー、もう菱餅が出てた」

神子はそう言いながら、フローリング拭き用シートでぼくの体を拭いてくれた。顔、首、肩、胸、腕、わきの裏、腰、尻、性器、太もも、ひざの裏、ふくらはぎ、くるぶし、足の裏。ぼくの体は腐らず真っ白に枯れているので、拭くというよりほこりを払っているようなものだ。血液をはじめとする体液、排泄物などは最後の1ヵ月ですべて体外に排出してしまった。これで死んでいないのは本当に奇跡だ。

カーテンごしのなめらかな光が当たり、ぼくの体には彫刻のような灰色の影が落ちている。水分がなくなりドライフラワーのようにぱりぱりの毛に包まれた子供のように小さな性器。神子は性器をふくめてぼくの全身にオイルを塗りつける。ゼラニウムやマジョラムのむせかえりそうな匂いが部屋全体に広がっていく。

出かける準備を済ませたあと、神子はぼくを抱え旅行用のボストンバッグに入れた。知り合いの編集者からもらったもので、新婚旅行でハワイに行こうとしたとき買ったものだった。結局お互い仕事が忙しくなってハワイには行けず、初めて入れた荷物がぼくになった。ぼくは折りたたむとちょうど入るサイズだと妻は笑っていた。

チャックがしまったボストンバッグの外から、古いタイプの携帯電話をパキッと開く音が聞こえる。神子はぼくと結婚する前からずっとこの携帯電話を使っている。

「さおりちゃん?うん。これから出る。1時間くらいで着くと思うから。うん。お昼どうしよう?ゆうきくんがいるし、カフェとかだと入りづらいかなって。あ、そういうところがあるの?さすがだねー。じゃそこにしてもいい?うん。ありがとう」

神子は電話を切り、ぼくが入ったボストンバッグを「よいせ」と抱えた。いくら軽いとはいえ骨と皮だけで十キロはある。ぼくとしては宅配でもかまわないのだが伝える手段がない。神子はもう40歳になる。旅行用ボストンバッグの中で屈葬のような姿勢をとったまま、神子を心配することしかできない自分がむなしかった。

小説を書きます

短編中心に書きます。

 

自己紹介

盛田諒。33歳、サラリーマン記者をやっています。(ググると記事が出てくると思う)2013年、30歳になり、正社員になり、結婚したタイミングでそれまで書いていた小説を止めました。もう死にそうな勢いで書いていたので書くのをやめた瞬間は気が楽になり「ちょっと休憩だ、そのうちまた書こう」くらいに気軽に構えていました。いま思うと小説を書いていてもちっとも幸せではなかったのでおそらく幸せになりたかったんだと思います。しかしその後あっという間に3年が経ってしまい幸せどころではなく焦りはじめました。こっちはちょっとコーヒーでも煎れるくらいの時間だと思っていたのに年月はビュゴーと台風のようにすっとんでいきます。住宅広告や生命保険のパンフレットなどを見るたび自分が死ぬことを思わされ「ギャー」と叫んで足で壁をバンバンやることになり、おいこれは求めていた幸せとは違うぞどうなっているんだとあわてて小説を再開することになりました。基本的にバカですがよろしくお願いします。