カルペディエム

小説書いてます

技術点と芸術点:町屋良平くん「青が破れる」

腹も減っていないし性欲があるわけでもないのに体が何かを求めてそわそわすることがある。どこかに行きたいのにどこに行きたいのかわからないとかそういうの。わたしはそういうときなぜかユニクロに行って欲しくもないシャツやニットを試着することになっている。狭っちい試着室で服に袖を通しながら欲望ホルモンみたいなものが下半身をむずむずさせるのを感じてやりすごすのだ。自分が何かわからないまま。

 

 

町屋良平くんの小説には、そういうときに思い出すべき行き場のないノスタルジーみたいなものが書いてある。それは数年来ずっと変わらないのだが文藝賞受賞作「青が破れる」にはとくによく書いてあるのだ。

 

 

ボクシングをしている秋吉が友達のハルオから「恋人のとう子が病気で死にかけている」と聞かされ見舞いに行くことになるところから物語は始まる。ハルオは男子らしくてかわいいやつだ。一方の秋吉は基本的に不器用であり内気であり「一緒にいるとラク」なタイプの男子。夫も子供もいる夏澄という女性と不倫していて「こっちにきてくれない?」と言うとう子に誘われるまま病室のベッドに入ってしまったりする。そんな秋吉&ハルオ&とう子の間に入ってくるのが秋吉のスパー相手梅生である。梅生はボクシングが強く人間関係について勘がよく、秋吉&ハルオ、ハルオ&とう子の関係がどんなもんか整理できてしまう(秋吉は整理をしない)。その後なんやかんやあるのだが基本的に秋吉は自分の気持ちを整理しないままバサーっと夏澄との関係を切ってしまう。その後やはりなんやかんやあって結果としてハルオとう子夏澄が全員死んでしまう。梅生はいろいろな「きもち」をイメージして、逆に秋吉はイメージせず3人の死を受け止めるのであった。ちなみにこのなんやかんやのところに大事なシーンがすべてある。

 

 

わたしにとって冒頭のようなそわそわ感をあらわしていたのがまさに秋吉である。小説は基本的に秋吉の一人称なのだがつねに誰かに頼ったような一人称であり、全体には自分で自分を認識してないところからきていると思われる不安感がある。町屋くんの小説にはこういうふわふわ男子がよく出てくるのだが秋吉はかなりパーフェクトに近い。自分はこうだというルールを持つのを嫌い、結果として梅生いわく「星のなにかダークなアレ」をもつ友達や愛人に囲まれた状況そのものを自分として認識しちゃっている。しかし普通に考えりゃ主観なんてのはそういうもんかもしれず、それを消化できない秋吉のこころというのはもはや芸術的である。町屋くんの小説はいつもこの芸術性に満ちている。切なくてムキムキの体があらわれて、わたしに行き場のないノスタルジーを感じさせてくれるのだ。秋吉の言葉を借りればそれは「けっきょくなにかをかんじそうになったら、走るしかないから。」なのである。

 

※わたしは小説が好きだが読むことは全然うまくないため、町屋くん本人がこの感想文を読んだら「盛田さんまじ小説読めないわー死んで」とdisりそうな恐怖もある。

 

 

さて最後にファンとしてのコメントになるが、町屋くんの小説の中でも「青が破れる」がすばらしいのは技術的に優れているところである。

 

 

まず5人のうち3人が死ぬという実験的な展開があるのだが、これがまじで一気に死ぬのでさっぱりしている。そしてもうひとつ、最後に主体がわちゃわちゃして「神様」という言葉が出てくる大事な場面があるのだが、この実験的描写も1回しかやらないのでとてもうまく効いている。こうした実験的な要素を入れようとすると初心者は「実験してやったぜ感」を出してしまうものなのだが、きわめてバランスが整った状態で入れられている。町屋くんはフィギュアスケートが好きなので詳しくもないのに無理やりフィギュアスケートにたとえるが、芸術性の高い流れの中に難度の高い技をうまく入れられている。ようするに「青が破れる」は技術点と芸術点がともに高い。何度も演技をくりかえしたことで到達した、抑制のきいたわざであると思う。まったくよくわかっていないがつまりコンビネーションジャンプである。

 

 

作家、とくに江國香織さんがそうだなと思うのだが、その人にしか書けない執念のようなものが作品の底にあるとすれば、毎回変わるのはそこに入ってくる「実験」である。「青が破れる」で町屋くんは1つの実験に成功し、その成果として文学新人賞を獲得できたことになるのだと思う。こんなことはもう死ぬほど言われるだろうと思うけど受賞は町屋くんのスタートである。町屋くんのノスタルジーは進化しつづける一方である。町屋くんおめでとう。